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●子供のころ
☆広告の裏が大好き☆ 小学生まで、未来の乗り物や基地を描くことが大好きで、毎日、折り込み広告うらに絵を描きまくっていた。それはまさに精密な設計図。エンジニアを気取っていたのかもしれない。サンダーバードの熱心なちびっ子ファンのひとりだったからか?(大人になるまで番組がカラーだったとは知らなかった)教科書もノートも文字より絵が多かった。空想に浸りながら、現実のようになっていく絵がとても好きだった。
☆劣等生☆ 学校は好きだったが、給食の時間は恐怖の時間だった。午後一の授業はいつも残って食べていた。掃除の時間も食べていた。というより必死に飲み込む作業をしていた。そのせいかどうかはわからないが、勉強はさっぱりどうも……。特に算数は苦手になってしまった。周りの友達は問題が解けるのに、どうすれば答えが出るのかすらわからなかった。はじめて自分でも吃驚したのが、中学3年生になってなるまで分数の意味すら知らなかったことだ。割算のことだって知らなかった。
☆劣等挽回☆ 数学がダメなのに、理科はいつも好成績だった。宇宙や天文、ロケット開発の話や新幹線開発の話など大好きで、同じ本を何度も何度も読んだ。図書館にあるノンフィクションとSFはほとんど読んだ。一つの得意科目を持つか、勉強がダメなら学業以外で得意なこと持とう!が自分との合い言葉だった。だから打ち込んでいたことといえば、発明や創意工夫でものを作ること。でも手先が器用ではなかったので、粗雑品ばかり作った。男の子らしく模型製作も大好きだった。紙飛行機の滞空時間を競う大会に出たりしたが、不器用で今ひとつ丁寧に作れないので飽きるのも早かった。科学者ぶって研究するのが大好きな時もあった。中学生の夏休みは宿題を全くしないで、個人研究に勤しんだ。今でこそ田中康夫長野県知事の「脱ダム宣言」のお陰で全国にもその名が知られた「浅川」という川を毎日調査と観察・・それを4年間も続けたのだった。確かそのとき子供ながらにダムなんて要らない!と感じていた。長野の山や住んでいる地域のささやかな自然の中で、思いっきり遊んで過ごしたので、自然環境を保護することにはあたり前のように関心を持っていた。だから、コンクリートの河床や改修工事にも生態系の観点から疑問を投げかけたりもしたが、政治的なことは考えもしなかった。研究の成果はそれなりに出て、全日本学生科学賞・県最優秀賞とか、水質調査の機器製作で全国発明工夫展入賞とかの評価をもらった。勉強はさっぱりだったので、こういうところでクラスの秀才を見返していた?のかな。三度の飯より……とよく言うが、まさに食事なんかしなくても平気で打ち込んでいた。さすがに白衣は着なかったが、子供部屋にはアルコールランプやフラスコが並んでいた。
☆追記☆ いつかNHKテレビで見た「コスモス」は強く焼き付いた。自分のやっている環境研究に関係することと壮大な宇宙をさらっと関係付けて、宇宙を身近にしてくれた恩人、カール・セーガン博士の影響はいまでも生きている。
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☆人前では赤面症☆ 音楽はあまり得意じゃなかった。小学1年生の全校音楽会、「おうまのおやこ」冒頭のウッドブロックのソロは、顔から火が出るほど恥ずかしくてイヤだった。今思えばパーカッショニストデビューだったのに……。音楽会のシーズン、音楽の授業は苦痛であり、テレビの歌番組もほとんど興味なかったどころか、のど自慢や家族対抗歌合戦などの番組は、人の演奏を聴くと自分のことのように恥ずかしくて、テレビの前で耳を塞いでいたほどだ。(でも歌謡曲は大声で良く歌っていた気がする。)
☆きっかけ☆ 小学5年生の時、放送委員になったのをきっかけに、放課後ひとり、色々なレコードを放送室でかけては聞きまくった。クラシック音楽、特にオーケストラが好きになる。めったにコンサートなど来ない長野に無料コンサートがやってきた。山本直純氏のあの番組、オーケストラがやって来た!だ。はじめて聞くオーケストラの演奏と直純さんの派手な指揮に魅せられ憧れた。中学でも放送委員をやった。しかしそこにあったレコードはポップスだった。だからクラシックとポップスを足して2で割ったような、イージーリスニングオーケストラ、つまりポールモーリアとかレーモンルフェーブルのようなヨーロッパスタイル、それにヘンリーマンシーニなどなどハリウッドの音楽を良く聞いた。そのころ我が家でも、父がようやく4チャンネルステレオなる音響機器を購入し、ラテンや映画音楽集などを毎日何度も聞いて楽しんだ。でもその時は演奏するほうを楽しむなんて考えもしなかった。
☆転換期☆ 中学3年、卒業間近のころ相変わらずの科学少年だったが、はじめて学校の吹奏楽部の演奏を聞いた。不思議だったのは、同じクラスにもたくさんのブラスバンド部員がいたのに、吹奏楽なんていう部活動があることを、3年間知らなかったことだ。楽器の音くらい聞こえていただろうに、興味がなかったからだろうか?でもその演奏を聞いてスグ、高校では吹奏楽をやろう!それもパーカッションだ!と決めていた。あまりにも同級生がカッコ良くプレイしていて、違う人にさえ見えたからだ。そしてそれはスネアドラムだった。高校入学ののち、ブラスバンドの虜になっていったのは言うまでもなく・・・科学少年はいつの間にか音楽少年になっていた。ただ、授業の音楽の評定は2〜3、リズムのテストに至っては0点!をいただいた。先生の方がおかしい!と思ったものの意見を言う自信もなく、こん畜生〜!(ほどでもなかったが)と見返しパワー全開で、作曲やスコアの読み方を覚え、当時80名の大所帯であった吹奏楽部では、いつのまにか先生を退けて指揮棒を振っていた。進路の事を考えて美術部にも席を置きながらであったが、高校3年間は全身全霊で吹奏楽に打込んだ日々だった。
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☆スピリチュアルな体験☆ 今でも鮮明に覚えていることがある。中学3年生の学校の帰り道、いつもの友達3人と話ながら歩いていて、誰かの「大人になったらどんな職業につく?」と質問があったのを受けて、私はとっさに職業名が浮かばず、「社会の役に立つ人間になりたい!」と答えたのである。あまりにも立派すぎて自分の言葉ではないような気がして吃驚したのだが、その言葉を放った後でとても清清しい気分であったのを思い出す。あれはまぎれもなく「私」の言葉だった・・。
そしてもう一つ、小学校から高校までずっと、担任になった先生は、いずれも理科の先生だったこと。きっと必然だったにちがいない。これが私の学生時代だ。
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